「日本漫画展」は、1970年の12月に、会場として豊島区民センターの展示場を日本美術会の好意で提供され、現代を風刺とユーモアでとらえたタブロー漫画展 《'70・この日本》を第一回展として発足しました。
好評だったこの第一回展の成果を,より発展させようと以後毎年、同会場で、日本列島の今を風刺とユーモアの個性的な発想と、自由な形式で漫画の可能性を追求する「日本漫画展」を、より多くの漫画家に呼びかけました。
「日本漫画展」は、毎年回を重ねるごとに、出品者とその作品も多くなり、質・量ともに充実した漫画展と評価され,自主的な漫画展として定着し,定期開催の記録を年々更新していきました。
この自主運営・定期開催の実績にたって、これまでのグループ形式から主催者を明確にした《日本漫画の会》の運営に発展しました。
《日本漫画の会》は「日本漫画展」の本展ばかりでなく、全国各地の要望に応え地方展の開催を決めました。
この企画は、74年のKK共同通信社主催で各都市に開かれ、78年には全国ミニコミセンターの元で各地に巡回、また、88年には佐倉市観光協会主催の佐倉展として実現、さらに茨城ゆうもあ村展へと発展しました。
「日本漫画展」は、会場の豊島区民センターの借用が不安定になったため、77年より吉祥寺F&Fホール(7F)に移りましたが、ここでも会場取得が困難になって、83年より、現在の銀座8丁目地球堂ギャラリーで開催するようになりました。
「日本漫画展」は会の趣旨によるアンデパンダン形式をとっているため自主出品制をタテマエとしてきましたが、併せて課題を設けてその年の主張をアピールしたい意向をとって、77年から「テーマ」と「自由」の二つのコーナーの展示をすることになりました。
<日本漫画’94展>から「八王子いちょう祭り」の祭典委員会の協力を得て、毎年11月の祭典期間中、当地ユーモア館で漫画展が開催されるようになり、活動の場が広がりました。
'96年には同委員会より作品集「漫画戦後の50年史」が発行され、漫画展にもはずみがつきました。
<日本漫画'99展>では、通常の漫画展に「30周年記念展」を加えて2週連続の開催としました。
併せて「日本漫画の会・作品集4」を発行しています。
「日本漫画展」はここ数年、出品者の減少で開催の危機に直面しておりました。
しかしアンケートなどで出品者から継続を希望する強い声の存在を知り、新執行部の下、開催を継続することとなりました。